*水鏡宮(5)*
メロルはシャイアをエスコートして、その寝室まで送りとどけた。
女官達がいないので明かりもなく、部屋はいつもより静かであるように感じられる。
部屋の外で、鳥が羽ばたくような音が大きく響いた。
メロルは、一つだけランプの火を灯し、薄明かりの中で、シャイアを寝台に座らせる。
「…ごめんなさいね、メロル。私は、大丈夫よ。…色々なお話を聞いたので、少し驚いて…疲れてしまっただけ。心配をかけてごめんなさい。」
無理に微笑みを作ろうとするシャイアに、メロルは笑顔だけを返した。
そしてシャイアから一歩さがると、片膝をついて座り、一礼する。
「姫様、これからちょっと、儀式をいたします。…まあ、おまじないのようなものですね。他愛ないことですが、おつきあいいただけますか?」
「儀式?一体、どんなこと?」
一生懸命話してはいるが、やはりシャイアの声はどこか虚ろで、無機的な響きがある。メロルは軽く小首を傾げて、また暖かい微笑みをシャイアに向けた。
「簡単なことです。あのですね、ちょっと、両手を軽く重ねていただけますか?」
「こう?」
「そうです。それで、もう少し上の位置で…。はい、そうです。で、目を閉じていただいて、私がこう、姫様の重ねていただいた手の平のところを下からポンと押しますから、そうしたら姫様は、思いきり両手をあげていただく。と、それだけです。」
「…わかったけど…何なの?メロル?」
「ですから、おまじないです。とにかくやってみてください。
さあ、いきますよ。目を閉じてくださいね。いいですか?
痛いのはお山に、
苦しいのはお海に、
つらいのはお空に、
とんでけーーっっ!!」
そしてメロルは思い切り良く、シャイアに万歳をさせた。
シャイアは、しばし唖然とした顔をしていたが、やがてくすくすと笑い出した。
「まあ、何これ、メロル?子供のおまじないなの?可愛らしいのね、私こんなの、知らないわ。モンターニュ家では、こうするの?」
「いえ、ごく限られた地域だけです。昔、妹には、よくやってやりました。…ついこの前も、やってやりましたけどね。ルビィが里帰りしてきた時に。」
「ああ、あのくるくるとした巻き毛の、可愛い方ね?とても綺麗な赤毛の。」
「そうなんです。あいつは昔からすぐ転んだりして、泣き虫で大変だったんです。今は一人前に王太子妃殿下のお話相手、などという名目でお側にあがっておりますが、失敗も多いみたいで。まあ、いい勉強ですよ、今まで苦労知らずでしたからね。」
「そうなの…。皆、大変なのね。」
「そうです。だから、おまじないは必要なんです。しかも、単純でばかげていればいるほどいいんです。…この、ばかげた呪文を作ったのは私なんですけどね。」
「いいわね。いいお兄様なのね、メロル…。ごめんなさい、どうして涙が出てくるのかしら。おかしいわね、私。」
「おかしくありませんよ。この、『とんでけ』をやるとですね、体の中の『つらつら』という成分が目に集まってくるので、どうしても涙が出るのです。この『つらつら』をちゃんと流してやらなければいけません。だから、しっかり涙を流さなければいけないんです。」
「…それも、メロルが作ったの?」
「いえ、これは、ラウディニア医療学会の、アレクサンドル・ラ・ドナ・ディアス・ライラエール博士の研究により明らかにされたことです。姫様、是非ライラエール博士を王室ご典医に推薦してください。」
「そうね、わかったわ。でもとても、覚えにくい名前ね?アレクサンドル・ラ・ドナ・ディアス・ライラエール。」
「そうです、アレクサンドル・ラ・ドナ・ディアス・ライラエール。」
シャイアはくすくすと笑いながら、尚も涙を止めることができないでいた。メロルは隣の部屋から手巾を持ってきて、そっとシャイアに手渡す。
「姫様、あまり、ご心配なさらないでください。我々だって、少しは役に立つと思いますよ。姫様お一人が、つらい思いをなさることはありません。
…もし、個人的なことであれば、私もご相談にのれますし。それは、期待してくださって構いませんよ。これでも私は、姫様第一の守護騎士であると自負していますし、ラウディニアの王女様でなくとも、シャイア姫様個人の忠実な部下ですから。いっそのこと、遠くへ行きたいとお思いになるようなことがあれば、決してお一人でお行きになられませんよう。ちゃんと、私にもお声をお掛けくださいね。あの、鷹狩の儀を抜け出した時のように。
でも、今はとにかく、『つらつら』を退治されることですね。たくさんお泣きにならなければいけませんよ。
明日、お目が腫れるかもしれませんが、これ以上おモテになられるのも問題がありますから、そのくらいでちょうどよろしいですよ。
…それでは、私はお部屋の前におりますから。後で、マリエル達が来ると思います。
くれぐれも、泣くのをおやめになったりなさいませんように、それだけはご注意申し上げます!」
「メロル…」
「はい?」
「ありがとう。」
「…いえ、御礼でしたら、アレクサンドル…ええと、ライラエール博士におっしゃってください。では、失礼致します。」
メロルは静かにドアを閉めて、足音もたてずそっと出ていった。
そして残されたシャイアは、何も考えず、ただ「泣く」という行為に専念することができたのである。
それは、いつも周りに気を使って生きてきたシャイアには、もしかすると物心ついてから初めての経験であるかもしれなかった。
「メロル、それで…姫様は、リシャール殿下に…」
「すべて奪われてしまわれたかどうか、ということ?そんなこと、されてはいらっしゃらないよ。」
「そうおっしゃったのか?」
「ば、何てこと言うんだよ、そんなお話、されるわけないだろ。」
「では何故…」
「それくらい、わかるだろ、見てて。」
「…」
「わかるよ。何かとてもショックなことはあったと思うけど、そこまでされてはいらっしゃらない。
え、ちょっと待ってよ、兄さん、それ姫様に直接聞こうと思っていたわけ?!やめろよな、そういうの。姫様、また倒れてしまわれるよ。
兄さんさあ、姫様が16歳の女の方だっていう認識、あるのかよ?」
「普通の女性ではいらっしゃらないのだから、ある程度は仕方ないではないか。私だって、好きでやっているわけではないぞ。」
「普通の方じゃないからよけいにだよ。ご病気にでもなられたらどうするのさ?…まあ多分、これで朝になったら、またちゃんと王女の顔をなさるだろうと思うけど。」
「しかし、そうなさっていただかなくては困る。リシャール殿下と渡り合えるのは、今回シャイア殿下ただお一人なのだから。」
「リシャール殿下ねえ…あの方もなんだか、可哀想な感じの方だよね。」
「か、可哀想?!」
「んー、いや、うまく言えないけど、なんとなく、ね…」
シャイアの部屋の前で、モンターニュの兄弟がいつまでも小声で囁きあっている。
マリエル達女官は、シャイアの嗚咽を聞いて身を切られるような思いをしながらも、「騒いではいけない。」というメロルの言葉を守り、あえてシャイアの側に寄らないよう努力していた。そしてウルク大将軍は、シャイアの腕についた指の跡を見た時から、体から火が出るかのような怒りを―父親が、愛娘に乱暴をはたらいた男に向けるような激しい怒りを―感じたまま、なかなか眠ることができないでいた。
そして明後日はいよいよ、アシリッド独立100年目の記念式典がとり行われる。
アシリッドでは式典の準備が、ラウディニアでは軍事演習の準備が、更にウォン・ハイやマカラでも忍びやかな水面下の動きが、深く静かに進もうとしていた。