*水鏡宮(2)*
「何をそんなに怖がっている?シャイア?」
「い、いえ、怖がってなどおりません。」
「二人きりになったからといって、すぐに襲いかかったりするつもりはないぞ、私は。」
そう言いながら、リシャールは見定めるかのようにシャイアの顎に指をかけ、じっとその大きな目を覗きこんだ。シャイアはさすがにそのような状況には全く慣れていなかったので、どうしていいかわからず、ただ潤んだ瞳をリシャールに向けるばかりであった。リシャールは冷笑とも微笑とも言えない微妙な笑みを、ほんの少しだけ顔に浮かべる。
舞踏会が開かれる広間から中庭を抜けたところに、その白く瀟洒な建物はたたずんでいた。
中庭に咲き乱れる南国の花々が甘い香りを漂わせ、噴水から流れる水が、りん、というような不思議な音をたてている。聞くともなしに聞きながらシャイアは、『ラウディニア宮の水琴の音に似ているわ…』とぼんやりと思い、そして水琴の池で偶然会った時のリシャールの様子を鮮明に思い出した。ひどく具合が悪そうだったリシャール。にも関わらず、シャイアの肩に上着を掛けてくれたリシャール。
―あれが、去年のことだなんて…。なんだかもう、ずっとずっと前のことのような気がするわ…―
庭に造られた大きな池に離宮の姿が反対に映り、幻想的な趣きを更に際立たせている。
まるでおとぎ話のお城のような、美しく清楚な小宮殿。それが、王太子リシャールのための離宮であった。
彼の寝室を兼ねた私室は五部屋が続きになっており、天井も高く、相当な広さの空間が彼のためだけに設えてある。が、アシリッド王太子の部屋にしては調度品の類は少なく、内部は意外にこざっぱりとしていた。玉や金銀宝石で飾り立てられたアシリッド宮殿内とは思えないほどで、ここと比べれば質実剛健なラウディニア宮、ダレン・ヴァウルの私室の方がずい分豪奢に見える。
しかしシャイアは緊張のあまり、そのような周囲の様子に気を配る余裕はなかった。
「そんなつもりはないが…。お前がそのように、いかにも初心な娘のように振舞っていては、ついその気になってしまうかもしれん。それはそれで楽しそうだがな…。今は少し話がしたいから、いつもの凛としたお前に戻ってくれ。でなければ、寝室へ連れていってしまうぞ。」
「え、あの…。お話、とは何ですか?」
なんとかしなくては、と焦ったシャイアはとにかく話をしようとしたが、発せられた声はかすれて実に頼りなげであり、シャイアは言葉を続けることができなくなった。そんな自分を持て余して、更にどうして良いかわからなくなった彼女の体は微かに震えてさえいる。リシャールは不意にシャイアにくちづけると、しばらくの間、その柔らかな感触を楽しんだ。
「色仕掛けか、シャイア?だとしたらたいしたものだ。…お前にそんな顔をされて、落ちない男はいないだろう。しかも、お前の肌は極上だ…クセになりそうだぞ。この肌に自分の印をつけたい男が、一体何人いるのであろうな。」
「リ、リシャール様、どうか、おやめください。困ります、私…」
「教えてやろう、そんな言葉は逆効果だ。そう言われてやめる男がいると思うか?私も本当は先に話がしたかったのだぞ。しかしもう、話など後でもよくなってしまったな。抱いた後、お前がどう変わるのかも興味深いところだ。」
その直接的な表現にシャイアは驚き、思わずストレートな答えを返してしまう。
「か、変わりません!そんなこと、関係ありません!」
「そうかな?まだ男を知らないお前に何がわかる?」
「リシャール様、本当に、お願いですから、おやめください!あなただって、お困りのはずよ、今私と正式に婚約を整えたくはないのでしょう?!」
「さあ、それはどうかな。別に方法は一つではない。お前と結婚するのも悪くない、と思い始めている。」
「え…」
シャイアの頭は混乱を極めた。リシャールのそれが本音なら、一番平和に繋がる近道であることは確かだ。
今、我が身を投げ出すべきなのだろうか?
―でも、この方がそんなに単純な解決法を採るはずはない―
「私こそ、本当に聞きたいのはそこだ。お前は私と結婚する気があるのか?三国同盟がそれほど大事か?
…は!すっかり政治家の顔になったな、シャイア。」
「私は個人ではありませんから…。私はラウディニア王女、という旗です。」
「旗を抱くのはつまらなそうだな。そんなお前なら欲しくない。結婚の話は無しだ。」
「リシャール様?!」
リシャールは本当につまらなそうに、シャイアから手を離した。シャイアはリシャールの真意をはかりかねている。
「国の平和のために体を売る王女など、娼婦と同じではないか。そんな女はいらぬ。お前は何故そんなに一生懸命、『王女』をやっているのだ?国の為?民の為?…正気か、シャイア?自分の欲などないと、本気でそう思うのか?欲の無い人間などいない。いるとすれば、ただの人形だ。お前はダレン・ヴァウルの人形か?それとも、シャイアという一人の女か、どちらだ?」
「ただの一人の女では、いられませんもの!私の一進一退で、何人もの人が巻き込まれますのに、私の欲を追及することなんて許されません!」
「では、欲など無い、と言うのか?それとも、死ぬまで隠し通すことができる、とでも?」
「…できます。」
「そうか。では、あの男は殺すことにしよう。」
「えっ…?!」