*ラウディニアの憂鬱(1)*
「もう行ってしまうの、アウラス? まだ外は暗いわ…」
「…皆に姿を見られても良いと?私は別に構わないが…困るのはあなたのほうではないか?」
アウラスはすでに近衛隊の制服を着込み、今階級章を付け終えたところだった。
反対に女のほうは未だしどけない姿で、昨夜の余韻を楽しむかのような艶かしい瞳でアウラスを見つめている。
「…嘘つきね。」
「何だって?」
女は薄いシーツを器用に巻きつけながら、ベッドの上に身を起こした。アウラスは憮然とした表情を作り、無言で女を見返している。
「うそつき、と言ったのよ、副隊長殿。それともジャクバール公爵の方がよくって?」
「…何をたわけたことを。私はまだジャクバール公爵を継いだ覚えはないぞ。…そんなことは百も承知だろうが、リオン侯爵夫人?」
リオン侯爵夫人はほんの少ししかめ面をして見せた。もうすぐ26歳になろうとするアウラスよりも10は年上のはずなのだが、せいぜい27、28歳にしか見えぬ美貌を保っている。そんな顔をしても可愛い、と思わせるだけの魅力が彼女にはあった。
「話をそらさないで頂戴。あなたが急いでいるのは、朝の謁見にシャイア姫様がおいでになるからだわ。"あなたの名誉を守るため、暗いうちに暇乞いをする"、なんてそんな殊勝な心持ちであるものですか。…あなたが姫君のことを考えるのは許してあげるけど、その嘘は気に入らないわね。」
「気に入らなければどうするのだ? もう若造の顔は見たくない、と言うならこれで最後にしよう。世話になったな、デュビュエ。」
「ア、アウラス!」
そのまま寝室から出て行こうとするアウラスの後ろから、デュビュエ―リオン侯爵夫人はそのしなやかな腕を回し、強く抱きついた。体に巻いていたシーツがはらりと床に落ちる。
「ごめんなさい…怒らないで、アウラス…。もう最後だなんて言わないで。お願い。」
アウラスはデュビュエの腕をゆっくりと払いのけ、振り返って彼女に向き直った。
彼の硬い表情から何かを読み取ることは難しいが、今浮かんでいるそれが「愛情」でないことだけはデュビュエにもわかる。デュビュエは思わず顔をそむけた。
「…どうして?どうしてなの?何故シャイア姫でなくてはならないの?シャイア姫にはダレン・ヴァウル様もいるのに、どうしてあなたまで…。どうしてすべてシャイア姫のものになってしまうの?!」
「王太子殿下は兄君だろう。そして殿下にはリリアンヌ様がいらっしゃる。すべてシャイア姫のものになどなっているものか。」
アウラスがそう言うのを聞いて、デュビュエは一瞬残忍な笑みをその美しい唇に浮かべた。
「リリアンヌ様?あの方もお可哀想だわ。私とそんなに違う立場ではなくってよ。」
「デュビュエ…お前、今日はどうかしているな。何故今日に限ってそのように訳のわからぬことを言う?私は…」
「そして、あなたも可哀想、アウラス。私達みんな、おんなじなのよ。」
アウラスは、「相手にしていられぬ。」という顔で出て行こうとした。しかし、次のデュビュエの言葉で、全身が凍りついてしまう。
「…もし、古代のように兄妹で結婚できるものなら、殿下は間違いなくシャイア姫とご結婚なさったわ。
アウラス、お側にいて気づかない訳はないでしょう?殿下はリリアンヌ様よりも、シャイア姫をご覧になる時の方が熱い目をなさっているわ。
あなたは、ダレン・ヴァウル殿下の恋敵なのよ。すんなりシャイア姫と結婚できるはずないじゃない。
しかも、シャイア姫はあの、リシャール殿下を…」
そこまで感情の赴くまま口に出してしまったデュビュエは、アウラスの様子を見て途端に恐ろしくなった。アウラスの目が、二つの水色の焔であるかのように見えたのだ。
しかし、デュビュエが気付いた時にはもう、遅かった。
「なんだ?最後まで言ってみろ、デュビュエ。シャイア姫は、リシャール殿下を、どう思っていらっしゃるというのだ?」
「あ、あの、ごめんなさい、アウラス。私ただ、焼きもちを妬いてしまっただけなの。本当に、ごめんなさい、私感情的になって…」
「最後まで言ってみろ、と言ったのだ。…聞こえなかったか…?」
貴族としては並ぶもののない名門中の名門・ジャクバール家の長男であり、最強を誇るラウディニア軍の副隊長であるアウラスに詰問されて、理性を保っていられるのは大陸でもほんの一握りの人間だけであろうと思われる。
美しいがごく普通の貴族の女性でしかないデュビュエは、その鋭い水色の視線を受け止めかねて、立っているのもやっと、というほどに震えている。
しかし恐怖にふちどられた表情の中に、自分の愛に応えてくれない男への冷たい笑いが微かに含まれていることも事実であった。
「…シャイア姫は…リシャール王太子殿下をずっと目で追っていらっしゃったわ。それに、リシャール殿下のご容態が悪かった時の、シャイア姫のご心配気なご様子…。きっと、姫様は…リシャール殿下のことが、お好きなのだわ!
私たちはみんな、振り向いてくれない誰かを追いかけて、ぐるぐる回っているだけのこと…。みんな同じよ!私も…そして、あなたもね、アウラス!」
その後どのようにしてデュビュエの部屋から出てきたものか、アウラスはほとんど何も覚えていなかった。
ただ、「あの女の所へはもう二度と行くまい。」と決意したことだけは心に深く刻み込まれていた。
アウラスには現在決まった恋人はいない。後腐れのない相手の所へ、ごくたまに通うくらいのものである。
それはもちろん、シャイア以外の女など、アウラスにとってはただ「肉体的に女である」という以上の意味はなかったためであろう。
「ダレン・ヴァウルが、シャイア姫のことを?まさか、考えすぎだ。確かに仲の良いご兄妹だが、それは邪推というものだろう。」
リシャールのことについては、彼もなんとなく気付いていたので今更驚きもしなかった。単にデュビュエから言われたので腹が立っただけである。
しかし、シャイアに対するダレン・ヴァウルの気持ちについては…思い当たる節がないでもなかっただけに、アウラスの心はひどくかき乱された。
普通、兄というものはあれほど優しい瞳で妹を見つめるものだろうか?
少なくとも、アウラスは妹にそのような恩恵を施したことは一度もない。自分に妹がいることを忘れてしまいそうになるくらい、彼にとっては縁遠い存在なのである。
「しかし、私は妹とは別々に育てられたが、殿下は姫が生まれた時からずっとご一緒だった訳だし…王妃様もお亡くなりになって、殿下がお育てになったようなものなのだから…私の家と同じように考えることはできない。だが…」
アウラスは、心の奥底に澱が滞るような感じを拭い去ることができなかった。
「だから、私を必要以上に近づけなかったのか?アシリッド独立祭に姫を行かせたくない、と言うのもそのせいなのか、ダレン・ヴァウル?」
アウラス自身は気付いていなかったが、そう考えることはアウラスにとって、楽、だったのである。自分がシャイア姫の結婚相手としてふさわしくないのではなく、それはすべて、ダレン・ヴァウルの横槍のせいなのだ、と考えることは。