*蒼月夜(8)*
「シャイア。」
リシャールはついに決心した。
静かに、しかし重々しく慎重に言葉を発する。シャイアは潤んだ瞳でリシャールを見上げた。
「…見返りが欲しいわけではない、と言ったな。その言葉に見合うだけの勇気を持ってほしい。」
シャイアははっとして涙を指先で拭った。その身体は次のリシャールの言葉を察して震えていたが、菫色の目は真っ直ぐにリシャールを見つめている。
「はい。大丈夫です。」
不安に怯えながらも健気に言葉を返すシャイアに、リシャールは思い切って強い口調で言い放った。
「…アシリッド王子リシャールとして言う。ラウディニア王女シャイアを、どういう待遇であってもアシリッドには迎えたくない。生涯を通して、足を踏み入れて欲しくないし、私の一存で決められることなら、婚約も解消したいと思う。」
その、あまりにも激しい言葉に、シャイアは一瞬眼の前が真っ暗になった。事実、倒れてしまいそうによろめいたシャイアを、リシャールは慌てて抱きとめる。
「…すみません…。大丈夫です。覚悟は、しておりましたから。」
リシャールは『大丈夫』どころではなく、今にも気を失ってしまいそうなシャイアの身体を抱きしめた。震えているシャイアはよりいっそう華奢に感じられる。予想はしていたものの、彼女の受けた衝撃の大きさを目の当たりにして、リシャールはひどく心が乱れた。
「…アシリッドに来させたくないからだ、シャイア。あの国は、お前のような姫君が来て良いところではない。同じ王室でも、ラウディニアとは全く違うんだ。
私があの王家の人間でなければ、そしてお前が王女でなければ、私はお前を攫ってしまいたいと心の底から思っている。しかし、お前が王女をやめられないのと同じように、私にもアシリッド王家の血が流れている…残念なことにな…。今ここで衝動にかられて逃避行をするというわけにはいかないんだ…。わかるだろう?いや、わからなければいけない。王妃として、国と結婚するつもりだ、と言ったからにはな。
そして、いつどうなるかわからない男に心を捧げるようなことは…やめておくが良い。嫌いとか迷惑とか、そういうことではないんだ。こんな状況で私がアシリッドに帰って、その後もし私に何かあったら、お前の心は壊れてしまうかもしれない…。だからはっきり言っておく。私はお前の心を受け取れるような人間ではない。あきらめろ。私を思い続けるようなことはするな。そしてもう一度よく考えろ、シャイア。お前は優しい娘だから、私のような危なっかしい人間のことが、ただ心配なだけだ。哀れみと恋とをはき違えてはいけない…。お前を幸せにしてくれる男は他に必ずいる。」
そう、一気に言ってしまったものの、リシャールは自分の腕の中で小鳥のように震えているシャイアを、どうして良いのかわからなかった。
「…わかりました…。」
しばらくの時を経て、今にも消えてしまいそうな声で、ようやくシャイアが言葉を返した。そのあまりにも悲しげな声音に、リシャールの胸は刺されたかのように痛む。
「…すみません、私、偉そうなことばかり言って、なのに実は、アシリッドの王妃になる可能性もあるかも、なんて期待していたみたいです…。だからちょっと…ショックを受けてしまいましたけれど…。リシャール様のおっしゃることはよくわかります。
そう…私は、王女なんですもの。私が誰かを個人的に恋するなんてこと、やっぱりしてはいけないんです。だってもし私が、こんな気持ちのままリシャール様の敵国に嫁いだら…きっと、あなたに殺されたいと思うでしょうし…それは王妃として失格ですものね…。」
リシャールはシャイアの言葉を聞きながら、自分の自制心がいつまでもつか、だんだん自信がなくなってきている。
アシリッド王室の争いは、例え自分が生き残るにせよ、しばらくは続くはずであり…それにシャイアを巻き込ませるわけにはいかない、と判断した上での先刻の発言だったのだが…増してや、どちらかと言えば自分が死ぬ可能性が高いというのに、シャイアの心を繋ぎとめるような言葉を口にするわけにはいかない、と思ってあえて彼女を突き放すような言い方をしたのであるが。
この可愛らしい少女から愛されている、という事実があまりにも甘美でありすぎて、シャイアを拒絶しきることができなくなってしまいそうな自分と、リシャールは隣り合わせに存在していた。
「…リシャール様。あの…。断ってくださっても当然なので、お気になさらず拒否してくださって構わないのですけれど…」
心の奥底をしぼりだすようにしてシャイアが言う。きっと拒否したほうがいいことなのだろう、それどころか、問い返さないほうがいいに違いない―そう思いながらも、リシャールは「何だ?」と優しい口調で聞き返してしまっている。
「…明日になれば、私はちゃんとラウディニア王女として、立派な王妃になるべくまた勉強を続けます。…でも、今日だけは。今夜だけ、夜明けまでのあと何時間かだけ、ただのシャイアでいたいんです。」
リシャールは黙って頷いた。シャイアはひどく控えめに、申し訳なさそうな切ない声で言葉を繋げる。
「…それで、あの…。もし。…もしも、お嫌でなかったら。今日だけ、リシャール様ではなくて、シヴァ様でいてくださいませんか?…勝手なわがままを申し上げて、本当にすみません…。でも、このままもうお会いできないと思うと…どうしていいかわからなくて…。もう何もかも、どうでもよくなってしまいそうで…。
ちゃんと、忘れるように努力します、あなたのことを思わないようにするわ。でも、今すぐは無理です。だって、こんなに、好きなんですもの…。好きで好きで、たまらないの。どうか、お願いですから、今、あと少しだけ、側にいてくださいませんか?」
見ていると菫色の目が涙に溶けてしまいそうで、リシャールには、そのシャイアの願いを断ることができなかった。
夜はますます、その蒼さを増したようである―