*蒼月夜(6)*
その時ふと、リシャールがシャイアの唇に指をあてた。
突然その身体が極度の緊張に凍りついたかのように硬くなり、黒い目がすっと細められる。もし彼が本当に狼なら、首の後ろの毛が逆立っていたに違いなかった。シャイアもはっとして辺りの様子に気を配る。彼女には、何がリシャールを緊張させているのか全くわからなかった。それでも、きっと何かが起こったに違いない、と確信する。
―リシャール様には何か聞えたのだろうか?―
シャイアは一心に耳をそばだてた。
そして、物音一つしない花園の静寂が、シャイアの耳に痛く感じられるようになった頃。
「シャイア、伏せろ!」
リシャールの態度が豹変した。少女に幼い恋を打ち明けられているまだ若い青年から、即座にその動きは肉食獣の敏捷さを取り戻す。
シャイアをそっと草の上に伏せさせると、リシャールは彼女を庇う姿勢で立ち上がった。その手には、忽然と現れたかのように抜き身の剣が握り締められている。いつの間に鞘から抜いたのだろう、とシャイアが思う暇もなく、きん、という重い金属音が辺りに響いた。そして何かが青い花の上に落ちる。それは、風を切る音がしないよう細工された、細いけれども充分に人を射抜ける鋭さを持つ一本の矢であった。
シャイアが息を呑む暇も無く、リシャールの剣が二度、三度と宙に舞う。その度に刃に何かが当たる激しい音と、リシャールの前に何かが落ちる音が続いた。
シャイアの身体は戦慄する。
―誰かが、リシャール様を狙って矢を射掛けているのだわ…!―
シャイアの心臓の鼓動が緊張のあまり大きくなった。リシャールは彼方の闇を見据え、矢が風を切る音を聞き逃すまい、と全神経を集中させている。
「やめなさい!」
しかし、その闇を鋭く切り裂く声を発したのは、誰あろうシャイアであった。
「シャイア?!」
自らの背後ですっくと立ち上がったシャイアの気配を感じて、リシャールはためらうことなく剣を捨て、シャイアを抱くようにしてその全身で彼女を庇った。しかしシャイアはひるみもせず、闇に向かってよく通る声でびしりと言い放つ。
「ここをどこだと思っているの?!ラウディニア城内での狼藉、許しませんよ!」
シャイアは怒りのオーラを体中から発しながら、闇の中を睨みすえている。リシャールが力ずくで押さえていなかったら、前へ飛び出して行ったかもしれない、と思われるほどの激しさである。
「…なんと。狼のお相手はラウディニア王女殿下か。」
リシャールにも意外だったことに、闇の中から低い声が響いた。
その言葉を聞いて、ラウディニア人でもアシリッド人でもないようなアクセントだな、とリシャールは判断する。
―暗殺者のくせに言葉を発するとは、どういうつもりだ?―
そう思いながらも、その声の響きからだいたいの位置がわかったリシャールは、まだ相手が離れた場所にいることに安堵した。男からみなぎっていた殺気は今は消えており、他の人間の気配もないようである。
―おそらく、矢を射つくしたのだろう。…何か、時間稼ぎをしているのだろうか?―
リシャールは投げ捨てた剣の位置を確かめながら、シャイアを庇う姿勢は岩のように崩さず、その背中で敵の気配を一心に探っている。
「おわかりのようね。ラウディニア王女、シャイアです。事を大げさにしたくなければ、すぐにここから立ち去りなさい!」
「…勇敢な姫君だな。矢が怖くないのか?」
「今私を射ることが、あなたにとって得策かしら?考えてみるまでもないわ。無駄口をたたいている暇があるなら、早くラウディニアから逃げることを考えなさい。」
くくく…と、闇の中にいる男は低く笑ったようである。
「気の強い女だ。狼のつれあいともなるとそんなものか?
さて、漆黒の狼。俺の矢を剣で落としたのは見事だが…。お前が自分の意志で剣を捨て、その上、丸腰で敵に背を向けるとはな!珍しい現象を見せてもらったよ。」
「…リシャール様、私は大丈夫ですから…」
もし今、男が矢を放ったとしたら確実にリシャールに当たる、ということはシャイアにもわかる。しかしリシャールは全く動かず、言葉を返そうともしない。ややあって、男が闇の中で、ちっ、と舌打ちのような音をたてるのが低く響いた。
「…お前の背中を射ても自慢にならぬ。…仕方ない、お前に剣を捨てさせた勇敢な姫に免じて、暗殺ごっこはこのへんで終わりにしよう。つまらぬ役目と思っていたところだ、ちょうど良いわ。」
シャイアの身体から少し力が抜けた。その様子が男にはわかるのか、また辛辣な口調が闇を縫って突き刺さってくる。
「…それにしても狼よ、国の随身全員から命を狙われていると知っていながら、何故のこのことラウディニアへ来た?つくづく、変わった男だな…。お前のような男をあんな連中に殺させては面白くないではないか。次に戦場で会う時まで、しっかり生きておけ!」
あいかわらずリシャールは声のする方へ背を向けたまま、何も答えない。ほとばしるような口調で声を発したのはやはりシャイアである。
「誰かに雇われているの?!アシリッドの者ですか?!」
闇の中の人物がまた、笑いを含んだようである。
「このラウディニア語がアシリッド訛りに聞えるか?あのような者共と一緒にしないでくれ、俺は別口だ。姫君の婚約者殿の命を狙う者は、一人や二人ではないのだよ。気の毒なことにな…。
…では、シャイア姫。そろそろこのへんでお暇させていただこう。あんたのように気が強い女は俺も好きだぞ。またお目にかかれることを祈っている。」
「お待ちなさい!どこの国の者ですか?!恥ずかしくなければ答えなさい!」
「…ウォン・ハイ。」