*蒼月夜(3)*
リシャールの視界に入るのは、ただ一面の青であった。
よく目を凝らしてみると、それは小さなかたまりとなって咲いている青い花の群れであることがわかる。そのような株が、この小さな窪地の中に一体何百本、何千本あるのだろうか。
それはまるで、中に飛び込んでしまえそうなほど深い、波を打つ青色の絨毯のようにも見えた。花々はひとひらずつ、僅かに違う淡さをその身にまとっている。投げかけられる青い月光の煌きが、更に奥深い陰影をその地に与えていた。
それぞれが自らの青を主張して、月光の中で伸びやかにひたむきに輝いている花たちは、遠い空の月に近づこうとでもしているのだろうか。その月と花との組み合わせがあまりにも美しく似合っていたため、何かの魔法で姿を変えられた恋人同士のようにも、また、月に恋焦がれる妖精たちの化身が花となったようにも見えた。
限られた短い時間、ほんの僅かな月光との逢瀬のために、可憐な花はその身を振り絞り、最も美しい青、最も純粋な青を必死で作り上げている。
そして、ただひたすらに青かったリシャールの視界の中に、一つだけ柔らかい金色の光が混ざった。シャイアが束ねていた髪を解いてリシャールを見つめている。その蜂蜜色の髪が、月の光の中へ溶け込むように輝いていた。
「気に入って下さいました?」
「あ、ああ、もちろん…」
半ば放心状態のリシャールに、シャイアはすぐ側まで戻ってきて手を差し伸べた。
そこでようやくリシャールはセイリーンから下りてシャイアの手をとる。
「シャイア。シャイア姫。」
リシャールの声は珍しくも、少しかすれてさえいるようである。戦場では何里も届くと言われるその声が、今は月の精霊の機嫌を損ねることを案じているかのように、静かにそっと発せられていた。
「はい?」
「…あなたは本当にシャイア姫か?何かがシャイア姫の姿を借りて、私を惑わそうとしているのではないか?」
「まあ。リシャール様でもそんなことをお考えになりますの?」
シャイアは微笑み、リシャールの目をじっと見つめた.しかしリシャールは真剣そのもので、何故か少し苦しげにさえ見える。
「…それに、私がリシャールだと何故わかる?お前の目に、私はどのように映っているのだ?」
シャイアはしばらくじっと、リシャールの目を覗き込んでいた。その菫色の目にリシャールの姿がくっきりと映る。そしてふいに、シャイアは言葉を返した。
「…私に、草原を見せてくださる方。」
「何?」
いぶかしげな表情をするリシャールに、シャイアは、ふふ、と微笑んでみせた。
「リシャール様が弓琴をお弾きになった時、目の前に緑の草原が広がりましたの。私、あんな経験は初めてでした。草の香りがして、涼しい風が吹いて、とっても気持ちが良かったわ。あなたの音は優しくて、切なくて、すごく素敵だった。私、ね、こんな子供ですけれど、嫌なこともあるんです。でも、そういうのが全部、どこかへ行ってしまう気がしたの。…私をそんな風にしてくださるのが、あなたなの。
それとね、あなたは、真夜中の泉のような目をした方。すごく深くて、本当に深くて、そして澄んでいるの。とっても綺麗な瞳。でも、時々とてもつらそうな目をなさるわ…。だから、心配になってしまうの。
…それが、あなた。私が見た、あなたよ。王太子殿下じゃなくても、リシャール様じゃなくても構わないわ!もし普通の貴族でも、ううん、傭兵でも、農夫でも、鍛冶屋でも、なんでもいいの。だって、あなたはあなただから。
…私、そんなあなたを、好きになってしまったの。」
何も言わず、いや、言うことができず、ただシャイアを見つめているリシャールに向かって、シャイアはまた微笑んでみせた。しかし今度の微笑みは少し大人びて、どこか寂しげですらある。
「ごめんなさい、突然こんなことを申し上げて。おかしなやつだとお思いになられますよね…。それに…つい何日か前に、嫌いだなんて失礼なことを言ったばかりなのに…。あの時は本当に、失礼を致しました。でも、正直に申し上げて、子供の頃は本当にひどいと思いましたの…。そのままの印象であんなことを言ってしまいました。だけど、今ここにいらっしゃるあなたは全然印象が違います。いいえ、これは私の受け取り方の問題で、あなたのせいではありませんけれど…。
そして、あの、きっとご迷惑だろうなということはわかっているんです。…ラウディニア王女としてなら、それなりに価値があるかもしれませんが…。こんな私、単なる15歳の子供でしかないシャイアに好かれても、リシャール様はお困りになられるだけだと思います…。でも、お伝えせずにはいられなくて。勝手なことを申し上げてごめんなさい…。
ただ、もし、私があなたを好きでいることをお許しいただけたら。そして、もしそのことで、あなたが少しでもつらい何かを忘れられたら、とても嬉しいのですけれど…。私に何か、ちょっとでもできることはないでしょうか?少しだけでも、あなたのお役にたつことはできないかしら?…あの、でも、もし。」
シャイアはそこまで言って目を伏せ、リシャールの返事を待たずに言葉を繋ぐ。
「もし、私がここにいないほうがあなたが楽になられるなら、それでもいいの。ご無理はなさらないでください。あなたに嫌われていることがわかるのはとてもつらいけれど…。でも、無理に一緒にいていただいて、そうしてあなたにとってつらいことを、今まで以上に増やしてしまうのはもっと嫌なの。どうか、気になさらずにおっしゃってください。」
「まさか。嫌いなわけがないだろう。」
リシャールは即答で答えてしまっていた。今アシリッド王太子である彼には、言って良いことと悪いことを、かなり注意深く熟考した後でないと口にしてはならない、という約束がある。しかしその歯止めがきかなくなりつつある自分をリシャールは自覚し始めていた。
「ラウディニア王女としてなら、と?そう言うのか、シャイア?他の王子たちはどう思うのか知らないが…。いや、アシリッド王子の立場もこの際考えないで良いならば、私は…」
『お前がラウディニア王女でなかったらいいのに、と、どれ程強く思っていることか。そんなご大層な身分でなければ、私はとっくにお前を自分のものにしているぞ、シャイア。』
『そして…私が、こんな立場でなかったら…』
しかし、一番言いたい部分は、それでもリシャールには言うことができなかった。しばらくの沈黙の後、リシャールは言葉を繋げる。
「…いや、私だけではない、お前が皆から愛されているのは、王女だからではないぞ、シャイア。どうしてそんなことを言う?お前に好かれて、嬉しくない者などいるものか。誰でも15歳の頃はあるのだし、私だってまだその頃の感じ方を覚えている。今その年齢であるお前から好かれているということだけでも、私にとっては大きな支えになるし、嬉しいと思う…。」
「あの、では、リシャール様。」
こんなに歯切れの悪い言い方では、彼女を傷つけてしまっただろうか?と考えるリシャールの胸が痛くなるほどに、シャイアはぱっとその顔を輝かせた。
「少なくとも私、リシャール様に嫌われてはいないと、そう思っていても構いませんか?」
「嫌いになどなれるものか。お前を嫌うほうが難しいぞ。」
これはリシャールの本音でもあった。
―いっそのこと、ラウディニア王女が嫌悪すべき性格の持ち主であったらまだ楽だったかもしれない、そうすればいつ死ぬかもわからないこの身を惜しく感じることもなかっただろうに…とリシャールはふと考えたが、目の前のシャイアの表情を見て、その思いを完全に否定した。
「…ありがとうございます…」
世の中で一番幸せな女の子の顔、という定義がもしあるとすれば、こういう顔のことを指すのだろうか、と思わずにはいられないシャイアの表情であった。その白い肌はアシリッド国宝の玉石よりも透きとおり、珊瑚色の唇は摘みたての果実のように瑞々しい。ふんわりと風になびく蜂蜜色の髪はそのまま月光に溶けてしまいそうなくらいきらきらと輝き、耳をすませばリシャールにも届く心臓の鼓動が、その頬と身体をほんのり桜色に染めている。
そして、潤みを帯びたシャイアの菫色の目。
幸せでたまらない、という気持ちが熱く強い光となってその中に宿っている、生命力にあふれた瞳。
なんという美しい色なのだろうか、と、リシャールはシャイアの瞳から目を離すことができなくなってしまっている。
―この色はどこかで見たことがある…この世で一番美しいと思った何か…。あれは、何だったろうか?遠い、幼い頃の記憶。懐かしいような、思い出したくないような、甘さよりも苦さが残る…重い心の傷を負った頃の記憶。
―そうだ。あの時、あの広大な砂漠を抜けた時に。
永遠に閉じ込められた夜の世界から、ようやく解放されるとわかった時の、一番最初の朝の光。
あの時の空の色が、このような色であった―
―シャイア。
お前は今また、私を夜から解放してくれる象徴として、私の前に現れたのか?
いや、今度は、私が自ら闇を切り開かねばならないだろう。自分を解放できるのは自分だけなのだから。
その勇気が私にはあるか?
様々な思惑やしがらみを振り払い、朝へと向っていく強さは?
また新たな、更に大きな闇が待ち受けているとわかっていても、幾度となく戦うだけの力は?
―しかし。
もし私が死んだら、シャイアはきっと悲しむだろう。
これほど幸せそうな顔をしてくれるお前を、悲しませたくはないな…―