*初恋(14)*
いよいよ大舞踏会の時間が迫ってきたため、シャイアは一旦自分の宮へ戻ることとなった。一度湯あみをして、その後服も髪型も変えなければならないのだから、かなりの時間を必要とするのである。実はずいぶん前から時間を気にしてやきもきしていた女官頭のマリエルを従えて、シャイアは王太子宮から中庭へ出た。
南国のアシリッドや建築美をつくしたベルニカであれば、その王宮の中庭は美しい花園や噴水があちこちにあり、様々な彫刻などの美術品が飾られているかと思えば、角を曲がると忽然と並木道が現れる、といった、人の目を楽しませる工夫がふんだんに凝らされているのであるが、ラウディニアの王宮にはそういった装飾はほとんど無いに等しく、代わりに剣の指南所として用いられているような殺風景な空間が広く存在するのみであった。
しかしそれでも、全く植物が生えておらず、池の一つもない、というわけではない。
王太子宮から、迎賓施設のある白亜宮の方向を見ると、その延長線上の左端に青く光るものが目に入る。周りには少しこんもりとした緑の茂みがあり、特別な手入れこそされていなかったものの、その一帯は自然美そのままの趣を楽しむ小規模な庭園となっていた。ほんの申し訳程度のサイズではあったが池もあり、水盤に湛えられた水が敷き詰められた玉石に映えて、無数の小さな青い光を反射させている。そして、池には水琴があしらわれていた。岩の割れ目から染み出す清水が細い筋となって水盤に流れ落ちる際、その水滴を受け止める部分に、それぞれ大きさの違う小さな鍵盤状の天然石が並べられていて、楽器のように音を奏でるのである。その下はがらんどうにでもなっているのであろうか、水が滴り落ちる度に、音階の違う澄んだ音色が意外によく響いた。そのリン、という澄んだ音がシャイアは大好きで、水琴の池は彼女のお気に入りの場所でもある。
今その大好きな池を遠目で何気なく見たシャイアは、茂みの一角で何かが一瞬動いたような気がして、はっとして目を凝らした。
「シャイア様?どうかなさいましたか?」
マリエルが時間を気にして焦りながら、じっと遠くを見つめたままのシャイアに声をかけた。シャイアもマリエルの焦れた声音を聞くまでも無く、「急がなければ」と思ってはいたが、何故か池のほうが気になって仕方がない。理性では早く王女宮へ戻ったほうが良いのは充分わかっていたにも関わらず、シャイアは「ちょっと待っていて」という言葉を残すと、スカートの裾をたくし上げ、身を翻すようにして庭園の方向へと小走りに駆けていった。
「シャイア様?!」
驚いたのはマリエルである。慌ててシャイアを追いかけたけれども、小鹿のように軽やかに走るシャイアに追いつくことが出来ない。シャイアはマリエルを大きく引き離し、白く整った顔を紅色に火照らせて、一心に駆けて行く。
辺りは、何か大きなイベントが始まる前にはお決まりの、建物から漏れ聞えるほんの少しずつの音や声の集合体、その物音をたてる人数が余りにも多いが故の、わーんと響くようなざわめきが充満し、それが耳鳴りのように間断なくシャイアの小さな鼓膜を打っている。その中を走り抜けていくうちに、いつの間にかシャイアはお気に入りの小庭園のすぐ傍までやって来ていた。
リン。
リ、リ。
リ、リン。
一定ではないリズムを刻みながら、水琴が透き通った音を響かせている。
先ほどまで聞えていた様々な喧騒―たくさんの人間が衣装替えをしたり、アクセサリーをあれこれ選んだりする時の、これが似合うわ、いいえこちらのほうが…、この色はどうか、それではあまりにも軽々しいだろうか…、はやくしなくちゃ、ああでもこれも着てみたいわ…、あの方は私を見てどう思うだろうか…きっと舞踏会で一番美しく見えますよ、そうかしら、そうだといいのだけれど…などという、非常に華やかで明るい、興奮と期待で熱を帯びた声や音―は一切聞こえなかった。まるで緑の茂みがそういった俗世界の物音を遮断してしまったかのように、時々さあっと風に靡く草や枝の音以外には、ただ水琴の音のみが小さく優しく聞こえるばかりである。
リ、リ、リ。
リ、リ、リ。
リン。
リ、リ。
リン。
さや。
水琴の音に耳を傾けていたシャイアは、一瞬微かに、草が揺れる音がしたのを聞き逃さなかった。
そしてシャイアは、自分でも気付かないうちにその人の名を呼んでいる。
「…リシャール様?」
「…どうして、おわかりになったのですか?」
まだ姿を現さないうちから己の名を呼ぶシャイアに、リシャールは驚きを隠せない。シャイア自身、全く無意識の言動だったので、それがリシャールだとわかった自分に自分で驚いているような有様だったのだが。
「リシャール様、どうかなさいましたか?お加減がお悪いのではありません?」
しかし、その驚きも束の間、木々の間から池のほとりに姿を現したリシャールを見て、シャイアは胸が痛くなるのを感じた。はっきりとわかるほど、リシャールの顔色は悪く、表情もどこか苦しそうだったのである。シャイアは慌てて、池を半周してリシャールのもとへ駆け寄った。
「お部屋でお休みになった方がよろしいのではありませんか?ここはお寒いのでは?」
心配そうに見上げるシャイアに、リシャールは苦しげな表情を少しだけ綻ばせた。
「いえ、ここのほうが気分が良いのです。できれば今部屋には入りたくない…。もう少しここにいることを許していただけますか、姫君?」
「ええ、それは…もちろん。リシャール様のよろしいようになさってください。それから、あの…もしよろしければ、何かお持ちしましょうか?暖かいお飲み物とか…」
「大丈夫です。お気遣いなく…しかしそれにしても、私をお見つけになるのはいつもシャイア姫ですね。姫は余程かくれんぼがお上手だったのでしょうね…。」
困ったような顔をするシャイアに、リシャールはふと寂しげな微笑を向けた。
「どうか私のことはお気になさらず、舞踏会へいらっしゃってください。私ももう少ししたらその準備に戻りますよ。お優しい姫君、お嫌いな相手のことまでご心配されていては、あなたが身体を壊してしまわれますよ。」
「え…。あ、あの…」
謝らなければ、とシャイアは心から思う。嫌いだなんて、そんなにひどいことを言ってしまったことを謝らなければ。しかし、シャイアの珊瑚色の唇は、まるで禁じられたかのように、言葉を紡ぐことができないでいる。そのようにかたまってしまったシャイアを見て、リシャールの目はふいに温かい色を浮かべた。
「何か気になさっているのですか?私は何も怒ってなどおりませんし、気を悪くもしていませんよ。お気になさらないでください。…困ったな、これではあなたのほうが、お加減を悪くされてしまいそうだ。すみません、姫君。ご心配をおかけして。部屋へ戻りますよ。」
リシャールは、とてもそのような顔色の者が出来るとは思えない軽やかな身のこなしで、シャイアの傍を音もなくすりぬけた。それと同時に、シャイアの肩に柔らかいものがふわりと掛けられる。シャイアは慌ててそれが落ちないように自らの両肩を抱くような格好になり―その柔らかいウールらしき素材のものを見た。黒い生地に、銀の刺繍の縁取り。金色の剣と銀色の狼の紋章。そして暖かい、人の温もり。それは今までリシャールが羽織っていた、アシリッド軍の上衣であった。
「リシャール様!」
「ご不要ならご遠慮なく処分してください。あなたのほうが余程寒そうですよ。」
そう言い残すと、リシャールはアシリッド来賓にあてがわれた西の建物の方へと歩み去っていった。シャイアはどうして良いのか全くわからず、ただ呆然と立ち尽くすのみである。
―余計なことをしてしまったのかしら。私はただ単に、お邪魔をしてしまっただけかもしれない。
―私は…私のやる事は、どうしてこうご迷惑ばかりかけてしまうのかしら…。
「…シャイア様、あの、本当にもうそろそろ、ご準備をなさいませんと…」
しゅんとした表情で黙ったままのシャイアに、マリエルが後ろからためらいがちに声をかけた。シャイアは急に夢から醒めたように、はっとしてマリエルを振り返る。
「そう、そうね、マリエル。ぐずぐずしてしまってごめんなさい。すぐに宮へ戻ります。」
ほっとした表情のマリエルに微笑みかけながら、シャイアは肩にかけられた服がずり落ちないように、その襟元を両手で強くかき抱いている。そして今更ながら、その頬が熱くなってくるのを抑えることができないでいた。