*初恋(3)*
そこでシャイアは少し言葉に詰まった。リリアンヌも離れた所から、「提督!」と非難の声をあげる。
「…別に構いませんわ。妃殿下の方がお美しくてお優しいのは知っていますから、今さら何を聞いても平気です。もったいぶらずにお教え下さい。」
「わかった。では教えてやろう。なに、本当にたいしたことではないのだ。シャイアの胸のサイズは、リリアンヌの半分くらいしかなさそうだが、ダレン・ヴァウルはどう思うか聞いておっただけだ。」
「叔父上!」
シャイアは若い娘らしく赤くなったが、はっと気がついたようにダレン・ヴァウルの方を見た。
「…兄上は確か、『あまりにも違いすぎる』とおっしゃっていましたわよね。私がここへ来た時に。」
ダレン・ヴァウルは、彼には非常に珍しいことながら、少し慌てて返答を返した。
「え?あ、ああ、そうだったかな。そうかもしれん。…まあ、事実に近いことだ。仕方ないだろう。」
「もう、兄上まで!お幸せなのはシャイアも嬉しいことですけど、おのろけになるのに私をいちいち引き合いに出さないでください!」
怒りつつも少し意気消沈したような、微妙な表情を見せたシャイアの頭を、ニコラウスは小さな子供にするように「よしよし」と撫でる。
「まあそう怒るなシャイア。男同士の戯言だ、水に流してくれ。
そんなことより、シャイアは今日歌わないのか?私はそれを楽しみにはるばるベルニカより出てきたのになあ。お前が独自の解釈でどんどん歌を変えていってしまうところが、私のような者にはとても新鮮なのだよ。歌ってくれよシャイア。」
そう言われてまたシャイアは頬をふくらませる。
「はっきり音痴とおっしゃったらいかがですか?!もう叔父上の前では絶対に歌いません!それくらいならアルフェス号のマスト登りをした方がましです!」
「お前ね、自分の得意分野に話をすりかえてはいかんよ。…そうか、シャイアは歌ってくれないか。だいたいラウディニアには楽士が少ないからなあ。王族と貴族の趣味は政治だと言うし、国民は商売やら畑仕事が楽しみときているのだから、面白みのないことだ。」
自分の国をばかにされた、と思ったシャイアは、つんとして精一杯冷たく聞えそうな声音を出した。しかしその様子が、百戦錬磨のニコラウスにとって格好のからかいの的になるのは誰もが理解するところである。
「そんなにおっしゃるなら、叔父上が何か演奏してください。私と違って、芸術的才能に満ち溢れていらっしゃるのですから。たやすいことでございましょう、音楽の国ベルニカのニコラウスさま。」
「何を言うか、お前の歌はある意味凄い才能だぞ。私が言うのだから間違いはない!歌だけを聞いていればなかなか良い声だし音程もまあまあだ。しかし、困ったことに何の歌なのかわからん。どうしてあんなに元の曲を変えてしまえるのだ、お前は?あれでは楽師がお前にあわせるのは無理だぞ、シャイア…。せっかくの美声を勿体無い…」
大げさに肩をおとしてため息をつくニコラウスを見て、成り行きを見守っていた人々は皆クスクスと笑い声をあげている。その、ホール中の視線が自分に集中している様子を確認した上で、ニコラウスはさりげなく本題に入ることにした。
「そんなことよりも…。今、私は思い出したのだが、リシャール王太子は確か、弓琴の名手でいらしたのはなかったか?一度戦場でお聞きして以来、実は惚れ込んでおったのだが。
どうでしょう、リシャール王太子殿下?あつかましいお願いですが、もう一度お聞かせいただけないでしょうか。御婦人方もきっと、感動なさること請け合いですから。」
この言葉を発したのが、芸術の国ベルニカの中でも最も芸術に理解あるとされるニコラウスだったので、居並ぶ人々は一斉にざわめいた。国王カザル二世さえも興味を持ち、直々に声がかかる。
「リシャール王太子、それはまことか?私も是非聞いてみたいものだ。幸い、弓琴くらいなら、芸術音痴のわが国にも良いものがあるからな。是非演奏して欲しい。」
ダレン・ヴァウルは「さすがだな。」と心の中だけで呟き、ニコラウスの方を見た。リシャールが時々弓琴を弾いていたのは事実だし、漏れ聞くところではなかなかの音だったことも確かなのだが、芸術家のパトロンとして名高いニコラウスが推薦すれば、その重みはずいぶんと増す。国王にまで言われて演奏しないわけにはいかないだろう。そして演奏できないということになれば、戦場でのリシャールとここにいる彼とは別人なのでは、という思いはほぼ決定的なものになるのだ。
アシリッド第一大臣アル・ハーンが、リシャールに向かって露骨に非難の表情を見せたのをシャイアは見逃さなかった。リシャールには少々負い目があるため、「嫌なら無理に演奏させなくても。」という気持ちになる。しかしシャイアが国王に何か言おうか、と思った時にはもう、リシャールがあいかわらずの冷静な顔で答えを出していた。
「ニコラウス殿に聞いていただくほどの腕ではありませんが、陛下がおっしゃるのなら弾かせていただきます。しかし、お耳汚しですよ。戦場で聞くのとこのような場所で聞くのとはずいぶん異なるでしょうから。」
そう言ってリシャールは、早速用意された弓琴を手に取った。これは本来、小弓の弦を鳴らすことから始まった楽器で、小さな弓状の木枠に三本の弦が張られた素朴なものである。今リシャールが手にとっているのは、王室保有の逸品だけあって見事な彫刻が施され、美しい宝石で飾られてはいるが、その三本だけの弦でどれほどの音楽が生れるのか、と懸念してしまいそうな、小さく頼りなげにさえ見える楽器であった。
舞踏用の音楽が全て中断され、急に訪れた静寂の中で、人々は一言も口を利かずリシャールが弓の調子を調べるのを見守った。細身とは言え武人の体格であるリシャールが手に取ると、弓琴は必要以上に小さく見える。すらりと伸びた体躯の間にちょこんと収まる楽器を、しなやかな指でそっと調弦している姿は、守るべき何かを優しく愛おしんでいるようにも見え、特に女性達は熱心にその様子を見つめている。
シャイアはそんなリシャールを初めて客観的に観察して、なんとなく、自分が記憶していた七年前のリシャールとは雰囲気が違うな、と思いはじめた。しかしだからといって「リシャールが二人いる。」とはシャイアは思わない。子供の時の印象だけで人を判断してはいけなかった、と反省する思いが大きくなるばかりである。そしてその、「悪いことをしてしまった」という後悔の感情とは別に、弦を合わせるリシャールの姿には何となく胸をつかれるものがあり、シャイアの心は自分でも理解できないほどに揺れていた。一体どんな音楽が奏でられるのか待ち遠しいような、いつまでもその姿を静かに見守っていたいような不思議な気持ちにさせられ、その苦しくさえも感じられる意外な熱さに、シャイアは少し戸惑っている。
そして、リシャールが唐突に最初の音を出した。
その瞬間、シャイアは自分がどこにいるのかわからないような感覚にとらわれた。リシャールが音を出した途端、目の前に緑の草原がひろがったのだ。それは多分、リシャールの即興の曲であるらしく、今まで誰も聴いたことのない曲だった。もの悲しい旋律で、故郷を離れた人が生まれ育った地を恋い慕うようにも、また亡くなった恋人を偲ぶようにも聞こえる。
しかしシャイアの目には、風で波打つ草原、見渡す限りの翠の海が見えた。その風が頬を撫で、髪を後ろになびかせる感覚までがはっきりと感じられる。生い茂る草の瑞々しく甘い香り。暖かい陽の光と交じり合う冷たい風。様々な表情を見せる草原。それを思い切り馬で疾走する時の心地良さ。そのようなものが一度にシャイアの五感に飛び込んできて、彼女は周りのことが何も目に入らなくなってしまった。
いや。
目に入るものが一つだけ。
小さな楽器を抱えるようにして静かに奏でている、黒い髪の人物。そのつりあがった鋭い目は怖いくらいに真剣で、心中の何かを吐き出すようにして音を紡いでいる。
そしてまた、彼の目も、この場所を見てはいないようであった。彼が見ているのはきっともっと遠く、もっと広いもの。憧れてやまないけれども、決して自分の手には入らない、とあきらめてしまっているような行き詰った視線。
シャイアは何故か、懐かしいような気持ちになった。こんな気持ちを前にも感じたことがある。リシャールは、誰かに似ているような気がする。七年前に会ったリシャールではなく、もっと別の誰かに。
誰だろう、とシャイアは考えた。そして一体、どこが似ているのだろうか。
改めてリシャールをまじまじと見つめる。黒い髪、黒い眼、ラウディニア人よりは黒い肌。ナイフで切れ目を入れたかのような鋭い瞳と、引き締まった体つき。胸や肩にくらべると、手足はやや細めで、アシリッド特有の幅広の剣を自由自在に扱うなど信じられないくらいだ。ラウディニアで見られる類の男ではない。
なのに、シャイアの記憶は、もしかすると七年前よりもさかのぼるかもしれないくらい古い。顔が似ている、というのではない。こういう雰囲気の男に会ったことがあると思う。
一体誰だっただろう。確かに見覚えがあるのだ。この、何もかもなくしてしまったかのような、ただプライドだけが残っているのを自分で苦笑するしかない、といった様子の男に。